読書ごっこ|ローラ、叫んでごらん

一歳半で両親に、生きたままフライパンで焼かれたローラ――この本は、せむしで醜いやけどの跡、人間を恐れ、まったく口のきけない生ける屍となった少女ローラと、絶望と思われた彼女の沈黙の壁を三年目にくずし、六年を経てついに人間としてよみがえらせた臨床精神医の、長く苦しい人間的なたたかいをしるした痛切な感動記録である。

第4回:ローラ、叫んでごらん リチャード・ダンブロジオ (サイマル出版会) 文章:2003年9月5日

【読書ごっこ】は私がこれまでに読んできた本の中で、
特別な想いのある本を紹介していくコーナーです。
読書を楽しんでいただけるように、なるべくネタバレなしで紹介していきます。
※尚、この文章は2003年に書かれたものです。無断転載は厳禁です。

 
“センセーショナルなコピーにつられて”
はじめて読んだのは高校一年の夏休み。4歳で両親が離婚して以来、この頃から別居している母親と会うようになり、色々な本を借りるようになっていた。中でも印象に残っているのが(作品の善し悪しではなく)、山口百恵「蒼い時」、藤田和日郎「うしおととら」、母親が嫌っていた村上龍「限りなく透明に近いブルー」、そしてこの「ローラ、叫んでごらん」の4つ。とにかく“フライパンで焼かれた少女の物語”というコピーが強烈だった。

簡単にいうと、口もきけない少女がはじめて言葉を話し、様々なことに苦しみあえぎながら、一人の女性として社会に出ていく姿を記録したもの。もちろんノンフィクション、しかも作家が書いたものではないので、ドラマの演出という面では大した文章ではないかもしれない。退屈だと感じる人もいるだろう。

 
“これぞノンフィクション?”
しかし、そのころの僕はまだ本を読むということが日常的ではなかったにも関わらず、それでこそノンフィクションだ! と感じたのを憶えている。著者のリチャード・ダンブロジオに文章力がないと言っているのではなく(けっこうアメリカ的なユーモアにあふれている)、話を無理に盛り上げたりせず、淡々と、それでいて思慮ぶかく綴られているところが良いと感じたのだと思う。
今でもその気持ちは変わらない。

 
“母親はケチである”
高校を卒業するころ、とある小さな古本屋で同じ本を見つける。よくこんなの売ってるな、と思いつつ値札を見ると100円。(補足すると、僕は気に入った本をひとにプレゼントする癖があるけれど、母親は絶対に手放したりしない)
そんなわけで、見つけたときが買い時。あのとき買っておいて本当に良かったと今になって思う。

先日、この文章のために「ローラ、叫んでごらん」をパラパラとめくりながら内容を追っていると、すっかり読み入ってしまい、結局最後まで読み終えてしまった。当然といえば当然だが、以前は見えなかったことが(読み取れなかった部分が)たくさんあった。発見とは言わない。見えなかったところが、あるいは忘れていたところが、生々しく、そこに存在した。

 
“古い写真”
ところでこの本、1973年発行で、割と古い本なのだけれど、乳母車に乗せられた僕の古い写真の背景に、この本が写っていて驚いた。僕が所有しているものではなく、現在も母親が所有している(ーー僕がはじめて読んだーー)本が、ちゃんとお行儀良く本棚に並んでいたというわけ。生まれる何年も前に発行されているだけに何の不思議もないのだけれど、ちょっとだけ親近感を持ってみたり。
 

〜私的あらすじ〜
ローラとの出会いは、開業医になったばかりの著者が、ソーシャル・ワーカーとして働いていている女性と、機内で偶然となりあわせたところから始まる。
貧しい生活の中で苦学し成功者となっていた著者は「施設」という言葉自体に不快感を抱いたが、その場の雰囲気に呑まれ、気が進まないながらも施設を訪ねることを彼女に約束してしまう。
そこには、思い通りに運ばなかった子供たち1つひとつの人生があった。まったくの無報酬で働く修道女たちは、朝5時に起床し、運がよければ夜の12時に眠るという週7日間働きずくめの毎日をおくっていた。1歳半で両親にフライパンにかけられ、全身に酷いやけどを負い、まったく口も利けない、何の反応も返さないローラに対してもかわらずに、彼女たちは限りなく暖かい心で、どんな苦労をもいとわなかった。
そんな彼女たちのように、辛抱強くあらねばならないと自分を諌める著者。

それらの施設は18歳までしか面倒を見ることができないことになっているため、それまでに自活できるようにならなければならなかった。人間として蘇ったローラは努力を続けるが、当然学校での成績も芳しくなく、子供たちの世話をする仕事に就きたい、という夢を諦めざるを得ない状況になる。
が、あるひとりの修道女による特別な(かなり強引な)計らいで、ローラの夢はつながっていく。



リチャード・ダンブロジオ

リチャード・ダンブロジオ
(Richard D’Ambrosio)
イタリア移民の子供としてニューヨークの貧民窟に育った臨床精神医で、どこかの大学の助教授と補導施設の臨床医長なんかを兼任している(していた?)。この「ローラ、叫んでごらん」を機に不遇な子供たちの更正につくしている。



僕にとってのローラは、一番上の写真の装丁に描かれた女の子だった。
割とかわいいっぽい女の子のイメージ。

でもちがう。ローラにはひどい火傷の痕がいたるところに残っている。背骨も曲がっててまっすぐに背筋を伸ばすこともできないし、まっすぐにものを見ることもできない。足にも障害があり、精神面にも大きな損傷を追っている。どんなに優しく呼びかけてもまったく反応を示さず、修道女たちの献身的な世話をもってしても、その施設に来てから7年間、まったく話すことができなかった12歳の女の子なのだ。

ローラの治療を受け持った著者は、治療をはじめて三年後、ついに彼女が言葉をしゃべるのを目撃するが(しゃべらせることに成功するが)、当然、はじめから三年でしゃべるようになるなんて保証はどこにもないわけだし、しゃべったからといって回復に向かうとはかぎらない。可愛い子を慈しむのはやさしいが、笑ったり怒ったりしたことがない醜い子供を愛するのは、言葉でいうよりもずっと難しい。

そのようにして、僕が強く胸を打たれたのは、この修道女たちの働きぶりだった。
精神病患者とされたローラは病院のベッドがどこも空いてなかったせいで、カトリック教会が運営するその施設に送られたという経緯があった。7年間辛抱強く尽くしてきた修道女たちは、ときには絶望的なものを見るけども、それでも精神病院につきだそうとは誰一人として考えない。

何よりも子供たちのために、できるだけのことはすべてやる。見返りなんて思いもよらないだろう。著者は彼女たちが子供たちについて愚痴をこぼすのを聞いたことがないという。
言うまでもないことだけど、これはかなり強力な忍耐力を必要とする。根っからそういう性格の人間なんてそういるもんじゃない。

修道女それぞれのキャラクターも、特徴があっておかしい。内気で天使のように清らかなマーガレット尼なんて、再三におよぶローラの手術(斜視、背骨、足、顔の火傷の痕など)の多額の費用を、医者にかけ合い、すべて無償で行わせてしまうのだ。(医者はこのマーガレット尼に強引に説き伏せられたというわけ)

このマーガレット尼はローラの学費の件でもかなり強引に予算を通してしまう。
日本ではかなり敵をつくるタイプだけど、とてもおかしいし、めちゃくちゃに頼もしい。

 
それと忘れてはならないのが、ローラをフライパンにかけた両親たちのこと。
著者は、精神病院に収容された両親に赴き、カルテを見てその過去を知り、実際に話をする。両親のマーチンとアデラインは娘のローラに対して加害者だが(何しろ皮膚の半分以上が焼けていてローラが助かったのは奇跡的だった)またそれと同時に不幸なる人生の被害者でもあった。
不幸とは理不尽なもの。子供だった両親はやはり理不尽な不幸にあらがうことができなかったのだ。

 
この「ローラ、叫んでごらん」、現在は講談社より文庫化されているっぽい。
この本は自分を諌めてくれる大切な本の中の、貴重な一冊です。

 
 
 

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